イタリア観光旅行(ローマ[II])

Hosanm2007-11-19



何とかいう名の坊さんの墓等々、どうでもいいものを見せられながら、左右の善男善女たちと道をゆずりあいつつ、順路に沿って移動していく。システィーナ礼拝堂はもうすぐらしい。移動する集団の興奮が高まっていくのが感じられる。

「どうでもいい」だとか「坊さん」だとか「等々」などと言ってスマソ。宗教絵画は好きだが、正直、宗教は嫌いなのだ。どんな「やつ」でもだ。そもそも、人の弱みにつけこむたぐいのビジネスが嫌いだ。健康オタク用のサプリメントネットワークビジネスだとか、役にもたたない資格ビジネスだとか、先祖の霊が苦しんでるだとか、とにかく宗教だとか…。(おまえそのうち狙われるぞ)

でも、宗教絵画は好きなのだ。ジンギスカンに興味はないが、ジンギスカン鍋が好きという人は多いだろう?それと同じだ。けっして不敬な発言をしているわけではない。

さらに言ってしまえば、「宗教絵画が好き」という言い方も違う。すばらしい絵がたまたま宗教画だというだけだ。

いずれにしろ、某宗教団体が政治的にも絶対的な権力を持っていたあの時代の欧州では、すべての芸術行為は宗教の衣を着せなければならなかったのではないだろうか?
芸術家として表現したい素材や衝動があっても、それを世間に受け入れらせて、かつ飯のたねにするには、宗教画を書く以外の選択肢がなかったのではないだろうか。風俗画は描きたくても描けなかったのだ。

だから、画家たちは、自分の書きたいものを「宗教画」として書き残した。理想の女性像はマリアをはじめとした聖書上の女性として。理想の子供は天使として。
だから、筋肉フェチの画家が書く神々は、すべて裸体の筋肉マンなのだ。

というわけで、やっと、システィーナ礼拝堂だ。列がだんだん狭くなり、無口で静かになっていく。「シー」と誰かが声をかける。
着いた。見上げる。視界をおおう圧倒的な天井画だ。
上を見ながら、人波の隙間をぬって少しずつ移動する。次々と聖書物語が変わっていく。
照明はない。天井の明り取り窓からの光量が天気を反映して変化する。絵画の陰影も変化する。すばらしい。わざわざ飛行機なんかに乗ってきても余りある。

圧倒されたからだろうか、感嘆の小さい声があがる。と、「Quiet Please!」の声。同行者にボソボソ解説している声も聞こえる。「Quiet Please!」。いいじゃない、そんな程度。でもだいじょうぶだよ。日本人も負けていない。団体旅行で、何も知らずここに連れてこられてしまった数人のおじさんおばさんが、昨日食べたピザが大きかったことと梅干が恋しいことを小声で話している。と、システィーナ礼拝堂にとどろく、静かだが高圧的な監視員の声。「Quiet Please!」「No photo please!」

しかし、この、ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂の天井画「最後の審判」。規模においても、作品の質においても、完成に至る人間ドラマにおいても、心の底から圧倒される。さらに加えて、ミケランジェロの異常なほどの「筋肉フェチぶり」にも圧倒される。
そうなのだ。「聖なるもの」はすべて、どうみても爺さんのはずのキャラでさえも、筋骨隆々とした裸体なのだ。



もちろん、描かれている「俗人」たちは着衣のままだ。未だ昇華されていない彼らは、貧相な心根、じゃなかった…「肉体」を衣で覆わざるをえないのだ。
人の理想像としての肉体美。「聖なる」ことによってのみ獲得できる完全な筋肉美。爺さんでも(しつこい?)だ。ここには、とてつもなく子供っぽい肉体願望がある。筋肉願望がある。

ミケランジェロの筋肉フェチさは、この天井画「最後の審判」にとどまらない。
これも旅行の目的のひとつとしていた絵画、同じ作家の「聖家族」を見て、予想外にふきだしてしまった。あんなに見るのを楽しみにしていたのに…。だって、聖母だけでない、幼子さえもすでに「筋肉質」なのだ。

ミケランジェロは、宗教画を描くことを通して、ひたすら、個人的な興味の対象だった「男性的な肉体」を描いたのだろうか?だって、神の栄光と御技を讃える「ためだけに存在した」絵画という技法。風俗画は描きたくても描けなかったのだ。