北方謙三版『水滸伝』巻の弐 『三国志』は序の口だった

Hosanm2007-05-26



三国志』も新しかった。三国志のお決まりの人物造形をすべて白紙にし、「物語自体」から自然に生まれるキャラクター像を、北方謙三なりに再構築している。

数年前に一気読みしただけなので、細かいところは覚えていないが、劉備は凡庸で優柔不断の男、孫権はせこい男、等々、えッと思わせる設定になっていた。

曹操がいつも魅力的なのはしかたない。三国志であればこれは動かしがたい。
びっくりするのは張飛の性格設定だ。粗野で力自慢なだけの張飛を、劉備関羽を立てながら、兵にも心配りをする、実に思慮深く行動する人物として描いている。もちろん戦場での張飛は超人的な強さを発揮する。常に筋を通しながら、敵には強く、自らには厳しい、しかし周囲には思いやりをもって接する、魅力的なキャラクターなのだ。
(そうそう、張飛が作る野戦料理、豚の丸焼きを食べてみたいな)

張飛を上まわる驚きは、あの「呂布」だ。呂布はとにかく強い。猛々しくはあるが、存在自体がきらびやか。なのに、小市民的な己の欲望に弱く、いちじるしく判断力に欠く人物とした描かれることが多い。
ところが、北方三国志では、呂布は、義も持ち合わせた、実にハードボイルドなキャラクターとして描かれている。

北方謙三は、この呂布の生き様を書きたくて三国志を書いたのではないか、と思わせるほどだ。三国志好きならば、この呂布像を読むだけでも、全13巻の前半を読む価値がある。(おかげで、ゲーム「三国無双」では、最初に呂布でやってしまったくらいだ…)

何万もの兵が対峙しているのに、数名の英雄の個人戦で決着がついていた従来の三国志らしいいいかげんな戦闘場面はない。それぞれの戦場と都市の地勢や風土も計算に入れた戦闘場面、特に騎馬戦は迫力とともに説得力がある。
ぜひ一読を勧める。が、その前に、従来の三国志を読んでいるということが、北方三国志を楽しむ前提だ。(気楽にいうなよ。北方だけで13巻だぞ)

三国志』はいちおう史実に基づいた話なので、北方風味付けだけで、物語自体は、それほど原典からはみ出していない。しかし、『水滸伝』は違う。もともとが講談なのだ。完全に新しい物語になってしまっている。これは理想像としての「カルチェラタン闘争」だ。ひとつの国造りの話でもある。経済戦も諜報戦まである。しかも、なんと、○○のはずが××になってしまうのだ。(ネタバレのため伏字)ここには北方謙三が描き続けてきた「男の死に様、すなわち如何に生きるか」があふれている。

一気読みしてやろうという目論見は消えたが、ま、いいや、これから一年間、梁山泊の連中に付き合ってやろうじゃないか。