藤原伊織『ダナエ』- あっちへ行ってしまった人たち


藤原伊織『ダナエ』を読んだ。手に入れてから2ヶ月以上放置していた。読むのが怖かったからだ。そろそろ、藤原伊織も「あっち」に行ってしまうのではないか、と不安だったのだ。

ダナエ

ダナエ

ハードボイルド小説が好きだ。中学生のときチャンドラーを知ってから、ハメット、ロスマク、スピレインなどを、はては元祖ヘミングウェイまでさかのぼり、むさぼるように読んでいた。

米の古典を読み尽くし、大藪春彦、三好徹、生島治郎河野典生は別格として)などの国産物に手を出したが、どうも違う。暴力的なだけで、ハードボイルド小説に最も大切なものひとつである「感傷」(これは個人的な趣味なので、異論を挿まないように)がないのだ。再び、国産ハードボイルド小説に夢中になったのは、70年代末になってからだ。

70年末から80年にかけて、船戸与一逢坂剛を中心(たぶんね)とした冒険小説がブームになった。その中に、後に国産ハードボイルド小説の旗手となる二人がいた。北方謙三志水辰夫だ。

夢中になったよ。これこそ、ハードボイルド小説!と。
ハードボイルド小説は「男のハーレクイン・ロマンスだ」と言ったのは、誰だったっけ?まったくその通りだ。自己犠牲、感傷、過去の罪、できなかったこととやってしまったことへの後悔に、まだだいじょうぶだよと…。男と女の嗜好の違いだけで、まったくそれぞれの「定番」なのだ。その世界に浸り、共感と後悔に涙することが、ハードボイルド小説の楽しみなのだよ。

その意味でも、北方謙三志水辰夫の小説は、完璧なハードボイルド小説だった。読んだことがあるかい?『眠りなき夜』『逃れの街』『渇きの街』『檻』『弔鐘はるかなり』『さらば、荒野』を。『飢えて狼』『裂けて海峡』『尋ねて雪か』『背いて故郷』『深夜ふたたび』『行きずりの街』を。すべてデビュー当時の小説だ。昔、内藤陳が月刊プレイボーイに連載していたよ。「読まずに死ねるか!」と。

でも、北方謙三志水辰夫も、あっちへ行ってしまったのだ。北方謙三は時代小説から中国物に、志水辰夫は純文学に。

北方謙三がどこかで書いていたはずだ(これは論文ではないの原典だとか論証だとかは必要ないのだよ)、現代ではハードボイルドな設定が難しいので舞台を変えた、というようなことを。
志水辰夫も、同じようなことを考えていたのだと思う。非現実的な暴力という設定から、ハードボイルド小説を開放した結果「純文学」小説が残ったのだ。と。(そうだね。まじめに生きれば、現実は、じゅうぶんハードボイルド的だ)

そうなんだろうと思う。(って、おまえがかってに想像しているだけだろ?)でも、また「あんな」小説が読みたいのだ。

藤原伊織の話だった。『テロリストのパラソル』で衝撃的なデビューをした後の、あまり玄人受けしなかった小説たちも好きだよ。乱読はしなくなっても、必ず新刊を読む、数少ない作家のひとりだ。でも、新刊が出るたびに不安はつのってくる。彼は、いつ「あっち」に行ってしまうのだろうか、と。

ひとつのジャンルで、良質なフィクションを創造し続けていくことは、難しいことだと思う。誰でも、人は、マンネリになってしまうのだ。
マンネリをものともせず、むしろ享受しながら、同じような小説を書きつづけている作家も少なくない。ハードボイルド作家では、パーカーやブロックなどその典型だろう。しかし、いずれも、英語圏での話だ。

そもそも、この日本で、限られた読者を対象とした、本格ハードボイルド小説というジャンルを、あえて表現手段として選んだ「彼ら」だ。マンネリに陥った自分を容認できるわけがない。
原籙のように書けなくなってしまうか、もしくは、「あっち」を志向してしまうのだ。

『ダナエ』には、自己犠牲、感傷、過去の罪、できなかったこととやってしまったことへの後悔、が「日常生活」の中にあふれてしまってはいる・・・・・、が、まだ、ぎりぎりのところで「こちらがわ」に留まっていると思う。
藤原伊織は、いつまで「こちら」側にいてくれるのだろうか。