北方水滸伝の黄身がぐずぐずであること

馳星周in北方謙三



うっかり読みはじめてしまった北方水滸伝。おもしろいんだよ。移動読書派。サイズの大きいハードカバーいやいや派。文庫本読み捨て派。としては、毎月の集英社文庫の発売が待ち遠しい。まだ9巻目だ。

ちょっと中だるみ気味か。でもだいじょうぶだよ。9巻目は、巻末の馳星周の「解説」がとてもおもしろい。

もともと、後書きや解説は好きなほうだ。最後に読めない。読書途中で読んでしまう。後書きや解説のないハードカバーよりも文庫本が好きな理由はここにもある。

文庫本にも悪習慣がある。上下二巻以上の続きものには、最終刊以外には解説がないのだ。だから、上下卷ものは一緒に買う。最初に解説を読みたいからだ。出版社の策略にはまっている…。
特に最近は「ネタばれ」解説がなくなったので安心して読める。あれば事前にちゃんと警告してくれることが多い。ま、それって解説者の怠慢か「解説力」が低い証拠なんだけど。(ネタばれなしでおもしろく解説するのがプロだろう?)

で、ひさびさの「解説文大賞」候補が、この本の馳星周の解説だ。馳星周がどれだけ北方謙三を嫌っているかが良くわかる。でも、嫌いでも、力量は認めているのも良くわかる。

というか、そもそも、この9巻目まで、いかにも「文庫本の解説」らしく手放しで北方水滸伝を誉めていなかった人もいる。

人選が悪いんだろうなあ。たぶん能天気な編集者のおばかな頭の中には、北方謙三=ハードボイルド小説家、と刷り込まれているのだろう。だから、ハードボイルド小説好きや作家を指名してしまう。

しかし、少なくともいまでは、北方謙三はハードボイルド小説家ではないのだ。もともとその素養が少なかったところに加えて、とっくの昔になけなしのハードボイルドさを捨て「転向」(なつかしい単語だ)してしまっているのだ。

その証拠として、北方水滸伝のいたるところにでてくる単語「志(こころざし)」がある。

「志」。それはいい。「男のハーレクイン・ロマンス」であるハードボイルド小説はまさに志を表現する小説だ。しかし、登場人物も作者も、志については語ってはいけなのだ。登場人物の行動を即物的に書き通すことによって、「志」を暗黙のうちに読者に感じさせるのがハードボイルド(=固ゆで卵)小説作家の腕の見せどころだ。決して「志」という単語自体が出てこないのだ。

北方水滸伝の黄身はウェットで、すでにぐずぐずだ。そもそも、北方謙三本人は自分がハードボイルド小説を書いているなんて思ってもいないだろう。

誤解しないで欲しい。北方水滸伝がだめだなんていっていない。まちがいなくおもしろい。「読破応援企画」の助けを借りなくても、読み通してしまうことはまちがいない。そんな「企画」をすることじたいが編集者のおばかぶりを証明してしまっている。少なくとも、読者をなめているのだ。

さて、10巻目も出たことだし、これから、誰が、どんな、解説を書いてくれるのだろうか? 馳解説をうわまわってくれるのだろうか? 編集者に期待している。志のある人選で、かならず笑わせてくれるだろう。