あっちへ行ってしまった作家 藤原伊織

Hosanm2007-05-20



藤原伊織が、本当のあちら側に逝ってしまった。ダナエを読んだ感想を書いたのは2ヵ月ほど前のことだった。『彼は、いつ「あっち」に行ってしまうのだろうか』と比喩で書いた。癌のことは知らなかった。

残された9作どれも名品だが、個人的には『ひまわりの祝祭』が好きだ。ラストの唐突さゆえ、あまり評判が良くなかった作品だ。

小説読みの楽しみは「読んでいるそのとき」と思っているので、物語のラストにはあまり興味がないのだ。
物語の流れはしっかり記憶しているのに、ラストだけが思い出せない小説が多い。老人性健忘症の始まり…と心配することもあるが、…実は…、若いときからなのだ。だから…、まだだいじょうぶだよ。ま、その話はまた後日書こう。

というわけで、その死を知ってから、いきなり読みはじめた。記憶通りのすばらしいプロットと展開だ。それなのに今日は出社。電車で行けば往復読めるのに、このいい天気、やはり自転車を漕ぎ出してしまった。まっすぐ帰ってくればいいのに、日曜日お約束の『ふじ多』をしてしまった。夕食のあとは寄り道せずに直線距離を帰ればいいのに、陽気と見知らぬ道に誘われて、夜特有の自由落下モードに入ってしまい、気がつくと自宅からは遠く離れてしまっていた。

だから、忙しいのだ。続きを読まなくちゃ。

かってな推測だが、藤原伊織は、書くのがけっこう苦しかったんじゃないだろうか。『テロリストのパラソル』のすばらしさが群を抜いていただけに、その後が大変だっだのではと思う。

『ひまわりの祝祭』は自信作だったのだと思う。しかし、物語を推敲するには時間が足りなかった。藤原伊織がじゃないよ。「旬なときに売れるだけ売っておきたい」という出版社の時間が足りなかったのではないか、と言っているのだ。兼業作家ゆえ、締め切りと出版社の都合に妥協してしまったのか、途中で投げ出してしまったのではないか、あの最後の唐突さはそんなところから生まれたのではないか、と「かってに」推測しているのだ。

どちらかといえば、この手の作品としては寡作だった。満足させてくれる作品を書きつづけて来たと思う。しかし、ひとつだけ危惧があったのだ。
それは、物語となる舞台が、純粋なフィクションから離れて、自分の属する世界(この場合は「業界」だね)になってきたことだ。

物語作家として、これは危険なことだと思う。

藤原伊織が退職し、二足の草鞋を一足にしたというニュースをきいたときは、うれしかった。これでまた、藤原伊織の世界がこちら側に戻ってきてくれるのか、と。いまにして、一足にした理由を思う。その期待は残酷なことだったのかもしれない。ご冥福を祈る。