「山海塾」公演。『降りくるもののなかで―とばり』

降りくるもののなかで―とばり



10月だねえ、牡蠣フライの季節だねえ、本格的な新蕎麦の季節だねえ、鴨鍋はまだかなあ、なんて、秋は食べる話ばかりなのか…というと、だいじょうぶだよ、ちゃんとゲイジュツもしている。

二年に一回っきりの楽しみがある。それは、人の肉体で表現する芸術だ。

四年に一度交互にやってくるワールドカップとオリンピックのことだろう、って? 違う。オリンピックとか△校野球のようなアマチュアの競技は好きではない。どうせ見るなら磨きぬかれたプロの技を見たい。
じゃあ、ワールドカップとEURO(ユーロ)の組み合わせだろう…って? 惜しい。でも違う。二年に一度の「山海塾」の日本公演なのだ。

十年ほど前だろうか。知人に誘われた。彼が勧めるものだからと前知識なしでついて行った。開始数分で引き込まれた。呼吸も忘れるほど、とはこういったことなのだろう。どっぷり山海塾の美学に浸かった。
これはリヒャルト・ワーグナーの世界の別表現なのだ、と感じながら。

そう。この「抽象的な美」は、ヴィーラント・ワーグナー演出のワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』とまったく同種の感動だったのだ。

クラシック音楽の巨匠が現代に生まれたら、うんたらこうたらという話の好きな人がいる。例えば、バッハならばジャズを、モーツァルトならばロックを…というやつだ。その言い方をすれば、ワーグナーならば、間違いなくプログレッシブ・ロックをやっているはずだ。そして、毎夏のバイロイトでは山海塾が舞っているのだ。

山海塾というと、半可通は必ずこう言う。「ああ、暗黒舞踏だろう」と。違う。そんな安っぽい括り方をして欲しくない。山海塾の舞踏は、肉体という極具体的な素材を使って抽象的な表現をする、という稀有な試みなのだ。抽象的なものに普遍的な美を見出せない未熟な感性には理解できない世界だろう。

人の身体には256、じゃなくて、265個の関節があるそうだ。その265個をフルに使った、静と動の微妙な合間。加古隆作曲のピンクフロイド風の音楽に乗って、天児牛大(あまがつうしお)が演出する。

特に、手と指の表現力って圧倒的だ。
そういえば、シオドア・スタージョンに『ビアンカの手』という印象的な短編小説があった。探してもう一度読んでみよう。

山海塾」。こればかりは、見ていない人には説明しようがない。言葉を超越した世界観なのだ。

テーマはいつも、死と浄化と再生、宇宙創生等の古典的かつ永遠の哲学的命題そのもの。…と、勝手に断定する。そして「愛と死」なのだ。と。