『トリスタンとイゾルデ』『真珠の耳飾りの少女』

「真珠の耳飾りの少女」?「青いターバ



久しぶりに「文芸映画」を見てしまった。しかも2本連続で。『トリスタンとイゾルデ』『真珠の耳飾りの少女』だ。どちらも劇場で見逃してしまった映画だ。この手の映画によくある、単館での上映だと、なかなか時間と場所が合わせられない。ビルの上のほうにあったりして、飛び込みにくいんだよね。文芸物を見るならば地下に階段で降りて行きたい。昔からなぜかそんな気分なのだ。

映画狂いをしているとき、あの頃はわかりやすかった。文芸物が見たければ日劇文化か新宿文化にとりあえず行けばよかった。とくにお気に入りは日劇文化だった。華やかな日劇の前の薄暗く目立たない階段を下りて行くと別世界。約束された名画に90分間、ずぶずぶに浸ることができた。こんな映画をやっていた。
おっと、こんな話をするつもりじゃなかった。閑話休題
ワーグナーの楽劇(8月はワーグナー月間だった。忘れていた。ん?8月はもう終わりだよ)で知られる『トリスタンとイゾルデ』はケビン・レイノルズの監督作品。ケビン・コスナーと組んで駄作ばかり作っていたが、やっと一皮向けた感じか。

そもそも、ワーグナートリスタンとイゾルデ」といえば、10代後半〜20代でもっとも淫していた曲だ。この曲のために、スケジュールその他もろもろをやり繰りしてバイロイトにも行った。さっき、「単館上映で見に行きにくかった」ようなことを書いてしまったが、本心は違う。印象を壊されるのが怖くて、足が向かなかったのだ。でもだいじょうぶだよ。やっと見た結果は、コーンウォールアイルランドの風景も含めて、これはこれで満足させられた。それだけ、自分自身の「トリスタンとイゾルデ」に対する温度が下がっているのかもしれない。

バイロイトは「曾孫」のデビューで荒れたらしい。というか、ずっとここ(ワーグナーさんとかバイロイトではという意味だよ)ではそんなものだ。「血」というやつなんだろう。それでも昔の日本では「そんな」生の情報から遠かったので、「形而下的」な話は伝わりにくかった。あえて耳をそむけるのも日本人らしい。でも、音楽が美しいからそれを創造した音楽家も美しいわけではない。天上的な曲を作る人が聖人である必要はない。それは別の話だ。心底醜悪な心を持った奴が書いたものでも、美しければそれでいいのだ。
こんなことを考えること自体、温度が下がっているんだろう…な…あ。

幻想を壊されるのが怖くって、という意味では『真珠の耳飾りの少女』もまったく同じことがいえる。実はフェルメール大好きなのだ。数少ない作品を追いかけていろいろな国に行った。ヨーロッパを中心とした海外に出るという仕事を選んだ理由のひとつはフェルメールでもある。

見る前はかなり不安だった。
きっと、絵画中の構図がたくさん出てくるんだろうが…とって付けたようだと幻滅するなあ。デルフトの風景はきちんと再現してくれるんだろうか? なにより、スカーレット・ヨハンソンはあの「青いターバンの女」の清楚な官能を表現してくれるのだろうか?…。で、とても良かったです。ありがとうございます。堪能させていただきました。さっそくアマゾンでオーダーしてしまいました。「ハンニバル・ライジング」もぜひ見せていただくことにいたします。(言葉使いがていねいになっている)

なにより脚本がいい。『トリスタンとイゾルデ』に描かれたような、直線的な恋愛感情の表現はひとつもない。それなのに『真珠の耳飾りの少女』はなんと官能的な映画なんだろう。とっくの昔に忘れてしまった、指がちょっと触れるだけでビリビリくるあの感覚。ひさびさに映画の表現力に新鮮な感動を覚えた。

デルフトの風景もシーンごとの構図も美しい。フェルメール役のコリン・ファースは相変わらずうまい役者だ。でも、スカーレット・ヨハンソンは、これは、もう、あたり役だ。やばい!スカーレット・ヨハンソンの映画で見残しがずいぶんある。さっそく全部見なくては…。女優にこんなに見惚れてしまったのは、『恋に落ちたシェイクスピア』のグウィネス・パルトロウ以来だよ。